Mundo ficciónIniciar sesiónマチルダ視点
フレドリックの皮肉な視線に車内で閉じ込められているだけで、息が詰まりそうだった。
重苦しい空気。
頭の中では、青白い顔をした父の姿ばかりが浮かんでくる。どうして私の二十代は、こんなにも不幸なんだろう。
どうして人生は、章を重ねるたびにもっと苦しくなっていくの?
「大丈夫? マチルダ」
唯一、私を少しだけ落ち着かせてくれるものがあった。
ローザ様の優しい声。
母親みたいな温もりのある口調。その声だけが、胸の中の混乱を静かにしてくれる。
「……分かりません、ローザ様」
私は小さく呟いた。
「まだ、お父さんのことばかり考えてしまって……」
「泣き虫だな」
前の席から、フレドリックが呆れたように吐き捨てる。
……本気で何か投げつけてやりたかった。
あの声を聞くだけで気分が悪くなる。
少しくらい、人の痛みに共感することはできないの?
「フレドリック、言葉に気をつけなさい」
ローザ様が鋭く叱りつける。
それから再び私へ向き直り、優しく微笑んだ。
「今夜は本館に泊まりなさい。お父さんのことは看護師たちに任せればいいわ。最高の治療を受けられるよう、私が責任を持つから」
その言葉を聞いた瞬間、私は崩れ落ちそうになった。
涙が止まらない。
母のお葬式から、まだ二か月しか経っていない。
なのに今度は、父まで弱っていく。
もう耐えられない。
どうしてこんなにも早く、全部壊れてしまうの?
「落ち着いて、マチルダ」
ローザ様が震える私の手を握った。
「大丈夫。お父さんはちゃんと治療を受けられるわ。私たちの専属医師も診ているし、安心して。強くならないと」
その温もりが、また涙を溢れさせる。
母の手を思い出した。
泣いている私を抱きしめてくれた、あの優しい手。
もしお母さんがまだ生きていたなら――
こんなに辛くはなかったのに。「もう泣くなよ」
フレドリックが鼻で笑う。
「もうすぐ着くのに、顔ぐちゃぐちゃじゃないか。鼻も真っ赤だし、本当に――ぶっ」
乾いた音が車内に響いた。
私は驚いて目を瞬かせる。
……ローザ様が、フレドリックの口を平手打ちしたのだ。
笑っていいのか分からなかった。
でも心の奥では、少しだけスカッとしていた。
私がずっとやりたかったことを、ローザ様が代わりにやってくれたから。
***
その夜のディナーは、まるで王族の晩餐みたいだった。
銀のトレーに並べられた料理。
繊細な皿。 暖かな照明に輝くグラス。全部が美しかった。
……でも、私には何の味もしなかった。
食欲なんて、もうどこにもない。
今すぐ家へ帰って、父の様子を見たい。
それだけだった。「少しでも食べなさい、マチルダ」
ローザ様が優しく微笑む。
「二人分も心配させないで。きっとお父さんも良くなるわ」
その瞳は、愛情で満ちていた。
胸が痛くなるほどに。
私は彼女を失望させたくなかった。
だから静かに頷き、フォークを手に取って、目の前のパスタをほんの少し口に運ぶ。
「で、婆さん。結局何の話なんだ?」
突然、フレドリックが口を開いた。
「さっきから気になってるんだけど」
……それは私も気になっていた。
どうして三人だけで、こんな改まった食事を?
「食事が終わってから話しましょう」
ローザ様は落ち着いた声で答える。
「まずは食べなさい」
フレドリックは大きくため息をついた。
「なんで? 俺たち、黙って食事するような家族じゃないだろ。まあ……マチルダの家はそうなのかもしれないけど?」
その言い方は、わざとだった。
見下すような、嘲笑うような声。
胸がぎゅっと痛む。
……昔憧れていた人が、今ではこんなにも醜く見える。
どうして私は、彼の中に優しさがあるなんて思っていたんだろう。
「……フレドリック様の言う通りです、ローザ様」
私は勇気を振り絞って言った。
「今、話していただいても大丈夫です」
ローザ様はにっこり微笑んだ。
とても嬉しそうな笑顔。
一瞬、父の病状について良い知らせでもあるのかと思った。
でも、次の言葉は――
私の人生そのものを変えてしまった。「そうね」
彼女はナプキンを置き、ワインを一口飲む。
満足そうに私たちを見つめながら言った。
「あなたたち、結婚しなさい」
……心臓が止まった。
一瞬、レストラン全体の音が消えた気がした。
呼吸をしていたかどうかさえ分からない。
次の瞬間。
私とフレドリックの声が、同時に重なる。
「はぁ!?」
「WHAT!?」
「声を下げなさい」
ローザ様が低く叱る。
「みんな見てるでしょう。だから食後に話したかったのよ」
フレドリックは勢いよく立ち上がった。
信じられない、という顔。
「何考えてるんだよ、婆さん。俺はこんな冗談に付き合わないからな。車で待ってる」
そう言い捨てて、彼は店を出て行った。
私は椅子に固まったまま動けない。
……なのに。
ローザ様だけは、まるで何事もなかったかのように穏やかだった。
「マチルダ、こっちへいらっしゃい」
優しく呼ばれ、私はゆっくり席を寄せる。
理解したかった。
どうしてこんな話になるのか。
「まず、フレドリックの態度について謝るわ」
ローザ様は静かに言った。
「無愛想で皮肉屋だけど、ちゃんと私が話をする。……さっき聞いた通り、私はあなたにフレドリックと結婚してほしいの」
私は言葉を失った。
……フレドリックと、結婚?
そんなの、あり得ない。
ローザ様は嬉しそうに微笑んでいる。
まるで幸せな知らせを伝えているみたいに。
確かに、昔は彼に憧れていた。
でもそれは、彼の本性を知らなかった頃の話。
今の彼と結婚するなんて、地獄でしかない。
「あなたが仕事へ行っている間、お父さんとも話したの」
ローザ様は続ける。
「誤解しないで。弱っているところにつけ込むつもりなんてないわ。でも私はもう歳なの。信頼できる人に、フレドリックを任せたいの。私が尊敬できる人に。その相手が、あなたなのよ」
私は何も言えなかった。
ローザ様は私の手を強く握る。
「フレドリックは育ち方を間違えたの。父親の影響もあるわ。女遊びばかりする身勝手な男だった……。このままだと、フレドリックまで同じになる気がして怖いの。私は、お金だけを目当てにする女と結婚させたくない。ポーラは彼に相応しくない。でもあなたは違う。誠実で、優しい。あなたの家族は長年、私たちに尽くしてくれたわ」
唇が震えた。
「でも……ローザ様。私たちの間には愛なんてありません。フレドリック様には恋人がいます」
ローザ様は優しく笑い、首を横に振った。
「愛は後から育つものよ。フレドリックも、いつかあなたを大切に思うわ。今はただ驚いているだけ。家に帰ったら、ちゃんと話すから」
……だめだ。
何を言っても無駄。
フレドリックが私を愛することなんて絶対にない。
彼にとって私は、“美しくない女”。
重荷でしかなく、嫌悪の象徴でしかない。
ローザ様は再び私の手を撫でた。
「さあ、食事を続けましょう。返事は急がなくていい。でも、あなたがフレドリックを受け入れてくれることを願っているわ。彼を変えられるのは、あなたしかいないの」
私はフォークを持ったまま、固まっていた。
ローザ様は、まるで何事もなかったかのように再び食事を始める。
……なのに私だけが、人生をひっくり返された気分だった。
フレドリックと結婚?
あの、私を馬鹿にして、近づくことさえ嫌がる男と?
……無理。
でも。
私たち家族に、ここまで良くしてくれたローザ様を――どうして断れるの?
震える手を見つめながら、私は心の中で呟いた。
――お母さん。
私は、どうすればいいの?だって、この先の選択ひとつで――
私の人生は、全部変わってしまうから。