6

マチルダ視点

フレドリックの皮肉な視線に車内で閉じ込められているだけで、息が詰まりそうだった。

重苦しい空気。

頭の中では、青白い顔をした父の姿ばかりが浮かんでくる。

どうして私の二十代は、こんなにも不幸なんだろう。

どうして人生は、章を重ねるたびにもっと苦しくなっていくの?

「大丈夫? マチルダ」

唯一、私を少しだけ落ち着かせてくれるものがあった。

ローザ様の優しい声。

母親みたいな温もりのある口調。

その声だけが、胸の中の混乱を静かにしてくれる。

「……分かりません、ローザ様」

私は小さく呟いた。

「まだ、お父さんのことばかり考えてしまって……」

「泣き虫だな」

前の席から、フレドリックが呆れたように吐き捨てる。

……本気で何か投げつけてやりたかった。

あの声を聞くだけで気分が悪くなる。

少しくらい、人の痛みに共感することはできないの?

「フレドリック、言葉に気をつけなさい」

ローザ様が鋭く叱りつける。

それから再び私へ向き直り、優しく微笑んだ。

「今夜は本館に泊まりなさい。お父さんのことは看護師たちに任せればいいわ。最高の治療を受けられるよう、私が責任を持つから」

その言葉を聞いた瞬間、私は崩れ落ちそうになった。

涙が止まらない。

母のお葬式から、まだ二か月しか経っていない。

なのに今度は、父まで弱っていく。

もう耐えられない。

どうしてこんなにも早く、全部壊れてしまうの?

「落ち着いて、マチルダ」

ローザ様が震える私の手を握った。

「大丈夫。お父さんはちゃんと治療を受けられるわ。私たちの専属医師も診ているし、安心して。強くならないと」

その温もりが、また涙を溢れさせる。

母の手を思い出した。

泣いている私を抱きしめてくれた、あの優しい手。

もしお母さんがまだ生きていたなら――

こんなに辛くはなかったのに。

「もう泣くなよ」

フレドリックが鼻で笑う。

「もうすぐ着くのに、顔ぐちゃぐちゃじゃないか。鼻も真っ赤だし、本当に――ぶっ」

乾いた音が車内に響いた。

私は驚いて目を瞬かせる。

……ローザ様が、フレドリックの口を平手打ちしたのだ。

笑っていいのか分からなかった。

でも心の奥では、少しだけスカッとしていた。

私がずっとやりたかったことを、ローザ様が代わりにやってくれたから。

***

その夜のディナーは、まるで王族の晩餐みたいだった。

銀のトレーに並べられた料理。

繊細な皿。

暖かな照明に輝くグラス。

全部が美しかった。

……でも、私には何の味もしなかった。

食欲なんて、もうどこにもない。

今すぐ家へ帰って、父の様子を見たい。

それだけだった。

「少しでも食べなさい、マチルダ」

ローザ様が優しく微笑む。

「二人分も心配させないで。きっとお父さんも良くなるわ」

その瞳は、愛情で満ちていた。

胸が痛くなるほどに。

私は彼女を失望させたくなかった。

だから静かに頷き、フォークを手に取って、目の前のパスタをほんの少し口に運ぶ。

「で、婆さん。結局何の話なんだ?」

突然、フレドリックが口を開いた。

「さっきから気になってるんだけど」

……それは私も気になっていた。

どうして三人だけで、こんな改まった食事を?

「食事が終わってから話しましょう」

ローザ様は落ち着いた声で答える。

「まずは食べなさい」

フレドリックは大きくため息をついた。

「なんで? 俺たち、黙って食事するような家族じゃないだろ。まあ……マチルダの家はそうなのかもしれないけど?」

その言い方は、わざとだった。

見下すような、嘲笑うような声。

胸がぎゅっと痛む。

……昔憧れていた人が、今ではこんなにも醜く見える。

どうして私は、彼の中に優しさがあるなんて思っていたんだろう。

「……フレドリック様の言う通りです、ローザ様」

私は勇気を振り絞って言った。

「今、話していただいても大丈夫です」

ローザ様はにっこり微笑んだ。

とても嬉しそうな笑顔。

一瞬、父の病状について良い知らせでもあるのかと思った。

でも、次の言葉は――

私の人生そのものを変えてしまった。

「そうね」

彼女はナプキンを置き、ワインを一口飲む。

満足そうに私たちを見つめながら言った。

「あなたたち、結婚しなさい」

……心臓が止まった。

一瞬、レストラン全体の音が消えた気がした。

呼吸をしていたかどうかさえ分からない。

次の瞬間。

私とフレドリックの声が、同時に重なる。

「はぁ!?」

「WHAT!?」

「声を下げなさい」

ローザ様が低く叱る。

「みんな見てるでしょう。だから食後に話したかったのよ」

フレドリックは勢いよく立ち上がった。

信じられない、という顔。

「何考えてるんだよ、婆さん。俺はこんな冗談に付き合わないからな。車で待ってる」

そう言い捨てて、彼は店を出て行った。

私は椅子に固まったまま動けない。

……なのに。

ローザ様だけは、まるで何事もなかったかのように穏やかだった。

「マチルダ、こっちへいらっしゃい」

優しく呼ばれ、私はゆっくり席を寄せる。

理解したかった。

どうしてこんな話になるのか。

「まず、フレドリックの態度について謝るわ」

ローザ様は静かに言った。

「無愛想で皮肉屋だけど、ちゃんと私が話をする。……さっき聞いた通り、私はあなたにフレドリックと結婚してほしいの」

私は言葉を失った。

……フレドリックと、結婚?

そんなの、あり得ない。

ローザ様は嬉しそうに微笑んでいる。

まるで幸せな知らせを伝えているみたいに。

確かに、昔は彼に憧れていた。

でもそれは、彼の本性を知らなかった頃の話。

今の彼と結婚するなんて、地獄でしかない。

「あなたが仕事へ行っている間、お父さんとも話したの」

ローザ様は続ける。

「誤解しないで。弱っているところにつけ込むつもりなんてないわ。でも私はもう歳なの。信頼できる人に、フレドリックを任せたいの。私が尊敬できる人に。その相手が、あなたなのよ」

私は何も言えなかった。

ローザ様は私の手を強く握る。

「フレドリックは育ち方を間違えたの。父親の影響もあるわ。女遊びばかりする身勝手な男だった……。このままだと、フレドリックまで同じになる気がして怖いの。私は、お金だけを目当てにする女と結婚させたくない。ポーラは彼に相応しくない。でもあなたは違う。誠実で、優しい。あなたの家族は長年、私たちに尽くしてくれたわ」

唇が震えた。

「でも……ローザ様。私たちの間には愛なんてありません。フレドリック様には恋人がいます」

ローザ様は優しく笑い、首を横に振った。

「愛は後から育つものよ。フレドリックも、いつかあなたを大切に思うわ。今はただ驚いているだけ。家に帰ったら、ちゃんと話すから」

……だめだ。

何を言っても無駄。

フレドリックが私を愛することなんて絶対にない。

彼にとって私は、“美しくない女”。

重荷でしかなく、嫌悪の象徴でしかない。

ローザ様は再び私の手を撫でた。

「さあ、食事を続けましょう。返事は急がなくていい。でも、あなたがフレドリックを受け入れてくれることを願っているわ。彼を変えられるのは、あなたしかいないの」

私はフォークを持ったまま、固まっていた。

ローザ様は、まるで何事もなかったかのように再び食事を始める。

……なのに私だけが、人生をひっくり返された気分だった。

フレドリックと結婚?

あの、私を馬鹿にして、近づくことさえ嫌がる男と?

……無理。

でも。

私たち家族に、ここまで良くしてくれたローザ様を――どうして断れるの?

震える手を見つめながら、私は心の中で呟いた。

――お母さん。

私は、どうすればいいの?

だって、この先の選択ひとつで――

私の人生は、全部変わってしまうから。

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